株式会社 作田畜産 百年の歩み

弊社百年の歩みと御礼

 弊社は、創業者作田松三郎が東北七戸近郊(馬産地)にて17人兄弟の次男として生まれ、尋常小学校を終えるとすぐ北海道根室に家畜商として入植し帯広に移住、そして旭川に拠点を移した大正六年、現在地に作田商店として創業いたしました。松三郎は当時内地より来道し一山当てようとした沢山の入植者の1人でした。松三郎は、当時の入植者のトレードマークのように飲兵衛で博打好きでは無く、博打も打たない酒も嗜む程度、仕事一筋の真面目な働き者でした。後に2代目社長作田良治は、朝仕事場にどんなに早く行っても先代はいつも仕事をしていたと、何時寝ているのか不思議だったと回顧していました。又、松三郎の子供9人の内、男5人兄弟は家業の仕事の手伝いが終わると兄弟が一人ずつ母よしのの管理している帳場に忍び込み金庫から小切手帳を1枚盗んで勝手に金額を書き入れ換金してこずかいにする事やラード製造工場からラードを1缶盗んで換金して遊ぶ資金にしていたと言う事でした(当時ラード1缶売ると4、5人で一晩中遊んで歩けた時代でした)戦前、戦中の作田商店時代の隆盛を極めた頃の逸話です。真面目で世話好きが功を奏し見る見る内に仕事仲間の中で頭角を現し大正末期から昭和の初めには、宗谷管内の広大な牧場を初め各地の農牧地を取得し道内各地に小作人や集荷代理人を置き北海道一円の農耕馬、軍馬、牛を集荷し主に大日本帝国陸軍や関東軍の軍馬や兵站、缶詰会社の原料物資調達の一翼を担い遠くは樺太、満州へと取引を拡大致しました。家畜集荷仲買、牧場経営の傍ら昭和5年頃には現地で油脂製造業、北海化成工業を創業、養豚事業や牛豚枝肉卸にも着手しました。終戦後、GHQによる不在地主解放で所有する各地の農牧場等の大部分を失い、主な業態を牛馬生体集荷販売から徐々に戦前より手掛けていた畜産、油脂製造、原皮販売、食肉卸、小売りへと軸足を移し川上から川下へと変換して参りました。

 終戦後の落ち着きを取り戻してからは、食肉卸をメインとしながら徐々に家業の再構築に一族が奔走いたし、昭和31年精肉小売に参入した頃作田商店を株式会社作田畜産へと屋号を改め法人登記し今までの家業から事業へと変換を模索しました。この頃に前後して、移動動物園の興業が全国で盛んに行われ、弊社は移動動物園で飼われている猛獣の餌の馬肉を全国に販売していました。時代の変革と歩調を合わせるように、各地の自治体で常設の動物園が出来てきて移動動物園が次々に廃業になり、弊社も餌代の代金の焦げ付きが発生しました。当時専務だった2代目社長作田良治は、焦げ付いた代金の代わりに何か代金回収の方法がないかと考え当時移動動物園で飼っていたライオンの子供を持ち帰ってきました。仔ライオンがライオンになってしまい、仕方なく大掛かりな飼育舎を作り寿命が尽きるまでペットとして飼っていました。当時の新聞に北海道の旭川、厳冬の中で越冬したライオンとして報道されました。2代目社長が笑い話で代金を少しでも回収するつもりがえらく追い金してしまったと回顧していました。全国を飛び回って商いをしていた2代目の逸話です。

 昭和33年頃、旧作田商店の精肉小売店舗が旭川市内中心部3条通8丁目に出店していました。昭和38年冬、店舗の2階、店子の飲食店から深夜失火し当時店子の飲食店とタクシー会社、弊社店舗が全焼しました。焼失後すぐ店舗を新築、工場所在地と本社を分離して本社を当該地に移転、小売店舗を併設しました。又従来の牛豚の生産、集荷、精肉卸販売から当時台頭してきたスーパーマーケット形態の販売に着目、スーパーマーケットが徐々に出来てきた時代、それに歩調を併せて弊社も小売店舗をテナントという形で精力的にスーパーマーケットやデパートに出店し生産から小売迄と言う一貫体制のビジネスモデルを構築し小売店舗を市内に10店舗ほど出店しました。

 昭和30年代後半から50年代前半に掛けては既存施設老朽化に伴い北海化成時代の油脂工場の建て直しや従来の枝肉卸流通から精肉卸流通への時代の変化に合わせて枝肉加工場と冷蔵庫の新築、パソコンが普及する以前、オフィスコンピューターが普及し始めたおり、いち早くオフコンを導入、社内OA化し昭和の高度成長と共に弊社も積極的な設備投資をしていました。

 昭和末期になると史上空前のバブル景気となり日本全体の生活水準が欧米並みかそれ以上に感じられるようになり、それに伴って現本社敷地で創業していた油脂製造工場や原皮工場、牛豚の育成事業が近隣住民への環境に対しての配慮などで現在地での継続が徐々に困難となり原皮工場の東鷹栖への移設や油脂工場の休止、牛豚生産事業を直営から委託へと事業を順次再構築し時代に則した形へと変化しました。又利用が減少した賄い付独身寮や社宅を閉鎖解体したのもこの時期です。

 平成2年に新本社屋を旧社員寮跡地に建設し、市内中心部に在った本社及び精肉小売店舗を廃止、新社屋建設予定地の道路越に建っていた枝肉加工場や冷蔵庫を本社に移転、新社屋に集約いたしました。其の後新しい事業となる冷凍食品加工工場を本社工場新築の2年後に本社社屋裏手に追加建設致したのもこの時期になります。

 この頃の日本社会全体が好景気による人手不足で悩んでおり、弊社もその例外にもれず従来からジンギスカンの原料のラム、マトンの原料肉を骨付き枝肉でニュージーランドから買い入れ弊社でロールラム、マトンに加工していましたが技術者不足人手不足で必要な製造量が確保できなくなりニュージーランドの人口約3000人程のイムレー村に現社長が課長時代に2週間程滞在して現地のアフコME39工場で日本向けラムロール製造の現地技術指導と弊社ラムロールの製造を委託して急場を凌ぎました。いまでは日本に輸入されている本国製造のラムロールが当たり前ですが当時は品質の悪いラムロールしか現地で製造されてなく、弊社が委託したニュージーランド、アフコME39工場で製造した日本専用仕様のラムロールの製造がラム、マトンのニュージーランドからの輸出の全てを管理するニュージーランド食肉公社で初めての日本向け専用ラムロールの製造、輸出となりました。平成バブルが弾け、不況と共にスーパーマーケット等の淘汰の時代を迎え、時代の波に飲み込まれるかのように旭川市内に10店舗ほどあったテナント小売店舗が年々徐々に大家である各スーパーやデパート自体の廃店などにより撤退を余儀なくされ平成10年頃にはテナント形態での一般小売販売から全て撤退いたしました。

 平成に入ってからは、本社工場で従来の牛豚生肉加工卸と共に時代の変化に対応した業態と商品を模索し従来から取り扱って牛、豚、鶏肉の精肉卸業務以外に、いち早く蝦夷鹿、ヒ羆、マガモなどの北海道産ジビエを全道各地のハンターより集荷して加工商品化し取扱商品に加え北海道から首都圏の特殊肉商社、有名フレンチレストランやホテルへの販売を始めました。後にグルメブームが到来し全国のお客様へ北海道産ジビエをお届けする事が出来ました。

 平成4年に事業化した冷凍食品加工では、人手不足や技術者不足で悩む観光ホテルやレストランの調理現場で作っていた料理をアウトソーシング化した高度業務用加工食品の製造販売を始めました。弊社の得意分野である食肉原料および生鮮原料の徹底した鮮度管理の元、高級ホテル、レストランにて長年勤務した弊社調理熟練スタッフの技術、味と品質及び安全を第一に考えた和・洋・中・スイーツの冷凍食品製造を致しており又地場産原料を素材とした観光物産向けレトルト製品の製造販売も手掛け時代のニーズに則した形での商品を提供いたしております。弊社の商品は、食品商社、ホテル、レストラン、結婚式場、スーパー、売店等へ専門知識と共に幅広くお届け致しております。

 又同年弊社2代目社長作田良治は、長年に渡る北海道畜産業界の発展に寄与した事を賞され北海道社会貢献賞を授与されました。

 東鷹栖事業所では、昭和初期の頃より手掛けております畜産副産物である牛生皮、豚生皮を全道各地より集荷し1次加工をしています。1次加工も昔は熟練した職人が手作業で1枚1枚加工していたものが昭和の後期になると国産加工機械が開発されいち早く導入しました。現在は、皮製品の本場イタリア製の加工機械が導入されております。

 東鷹栖事業所は、北海道畜産公社上川事業所内になり昭和後期、現在地に新築された上川畜産公社屠畜場開設と同時に作田畜産原皮部門をそっくり移転して入居しました。

 この事業所で国内はもとより世界各地の顧客の元へ北海道産の良質な塩蔵原皮を販売及び輸出致しております。

 平成22年九州宮崎での口蹄疫発生の折、日本産豚原皮の輸出が疾病感染防止の観点から口蹄疫汚染地域に指定され受け入れ国がなくなりました。原皮は時間とともに劣化していく商品ですので業界全体で販売先を失いました。輸出先が全面ストップする状態です。原皮商品が産業廃棄物になる瞬間です。以前、口蹄疫が発生した時は、生産者から買い取った豚原皮を一次処理した後、廃棄業者に廃棄料金を払って廃棄してもらう作業が4ヶ月程続きました。豚原皮に関して99%が輸出で国内に製品加工する専門工場がありません。暫くしてフィリピン政府が単独で消毒等の感染防止対策が規定通りされている認証を日本政府検疫と保健所が認証した物に限り輸入を認めるとの通達がなされました。いち早く消毒体制を整え、通常前例の無い事に対して消極的な姿勢の行政機関ですが関係官庁である旭川市保健所、北海道検疫所等、地元行政機関の弊社に対する迅速なご協力のお陰で輸出認証を備えた消毒作業を終え商品の品質を維持したまま無地輸出する事が出来ました。結果的に弊社の苫小牧港からの輸出認証実績が全国の関係行政機関の前例となり、その後の国内産原皮のフィリピン向け輸出が全国の検疫所で一斉に事が運んだ事を後で知りました。これは近年の例ですがまだまだ山のようなエピソードが時代と共に経験しております。

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